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時候のあいさつの仰々しさについて考えてみた

例.)天高く馬肥ゆる秋

 

手紙を書くとき、時候の挨拶はなぜこんなに仰々しいのかと考えたことはあるはずだ。

一種の”たしなみ”であるので回数を重ねるごとに日常的なものとして扱えるようにはなるがやはり”仰々しさ”や”かたさ”が感じられる。

 

なぜ時候の挨拶を書くのか。

無からコミュニケーションを築く第一のアクションとしてなぜこんなに大げさなのか。

 

そんなことを考えていたが、日々の生活で使っている「おはよう」や「こんにちは」「こんばんは」という挨拶は、

「今日はいい天気ですね」や「今晩はいい夜ですね」のように

挨拶とは単に環境に対する感想なのである。

 

人類は、無からコミュニケーションを作り出す第一歩として

”Good morning” や ”Good evening” のように、互いの共通認識である環境から

共感を得られる言葉を選んだのである。

 

環境への感想という挨拶の成り立ちからからも時候の挨拶というものはなんら特別なことではない。

 

しかしながら時候の挨拶というのは日頃のあいさつと比べて、感性が独特で解釈しにくく

自分の感性を押し付ける行為である。

 

共感から親近感を得るという挨拶の目的から乖離してしまっていること、が

時候の挨拶を仰々しくしている原因である。

 

時候の挨拶にはテンプレートが蔓延している。

他人の感性の、自分でも共感が得られないものであるにも関わらず、相手に対して共感を求める。挨拶は共感から親近感を得るというコミュニケーションツールであるのでこれでは本末転倒である。

 

型は大事ではあるがせっかくの手紙であるので自分の言葉で伝えたいものだ。

「生活保護を受ければいい」を考えてみた

生活保護を受ければいい」

 

これは過労自殺した労働者や生活苦により自殺した人に対して良く言われる意見だ。

 

一見すると「おれの税金で養ってやるよ」という懐の深さにも感じられるが

生活保護があるのだから容赦なくおれはお前を追い詰めるし厳しくするぞ」

という意見のまちがいである。

 

また「生活保護を受ければいい」という意見の裏には生活保護というセーフティネットワークがあるにも関わらず

それを利用できないやつはバカである、といったこともあるだろう。

 

 

生活保護を受ければいい」という人間は組織の上位層に存在し

どちらかというとパワハラが目立っている印象がある。

下からの不満を知ってか知らずか

自分への責任を「逃げる選択肢をしない者」へ責任転嫁しているのである。

 

現実的なところで「生活保護を受ければいい」と言われる人間が

生活保護を受ければいい」と言っている人間を変えることはできない。

 

パワハラは短期的に結果を出すことには適しているが長期的に結果を出すことは

できないので

慢性的にパワハラを行われている環境からは逃げ出すか逃げ出せるための

準備をそれこそ死ぬ気でやるしかない。

 

一番よくないのは視野が狭くなりすぎて

もう逃げ道がないように思ってしまうことである。

 

続けるという決断も立派だが

辞めるという決断、逃げるという決断も十分立派なのである。

 

好きな釣りをやめた理由

好きな釣りをやめた理由

 

それは自然を汚したくないからだ。

 

魚が好きで釣りも6年以上の経験があるが

転機となったのは地元の自然の美しさを理解できるようになってからだ。

 

高校のときになるが、釣り場にあるラインなどのゴミが気になるようになり始めた。

美しい自然に人工ゴミなどあってはいけないと強く思うようになった。

ノットを結ぶときにでるラインの余りは持ち帰るようにしていたが、根がかりで出てしまうゴミは避けられない。

 

すでに、釣りをすることは自然を汚している、環境破壊に繋がっている、と思い始めていた。

 

次第に釣りをすることを敬遠し始め、高校を出るときには

釣りはもうやめていた。

 

 

自然を汚したくないと思って釣りをやめた訳だが

自然をきれいにするためにゴミ拾いを始めてはいない。

 

きれいにするというよりは、汚さない、現状維持という道を選んだのだ。

 

自然を汚さないことときれいにすることは本質的に違うものであるので

地球のことを考えていくには

こういったモチベーションの違いを正しく理解する必要がある。

母の日について【感謝を伝えられない人たち】

母の日について

 

なぜ母の日はピンとこないのか。

「日ごろの感謝の気持ちを伝えよう」と世間は言っているが

実際に伝えられている人はどれくらいいるのだろう。

 

世間ではそう言っているが実際に感謝を表明できずに憂鬱な気分になる人もいるはずだ。

筆者考えでは実家に帰れば家事を手伝えと言われている子らに多いと思う。

その子らは母親が身の回りの世話を全て行ってくれていることが普通の環境で育ち、

自身は家事を面倒なものと思っている。

 

母親のサービスがあることが普通の環境であると

子どもたちは母親の苦労を感知することができない。

母親への有り難みを感知できない状況で

「日ごろの感謝を伝えよう」となってもピンとこないのである。

 

そうであるので

母の日がピンとこない人は「自分ではやりたくない面倒なことを母親は365日やってくれている。その1/365日、母の日だけでも感謝を伝えましょう」という考え方にシフトしよう。

 

母親は子を幸せするために能力を使う。

幸せを貰ってばかりではなく幸せの恩返しという意味でも母の日を祝えたらいいですね。

 

 

 

 

会社を辞められない愚か者ども【円満退社の罠】

会社を辞められない愚か者ども

 

「円満に退社したい」

 

結論から言ってこれは不可能だ。

 

退職理由の大半は人間関係によるものだ。

 

人には承認欲求というものがある。劣悪な環境、劣悪な人間関係にあっても人から承認されたい欲というものが存在し、それを満たしてから退職に踏み切りたいことは最もだ。

 

しかしそれが「罠」である。

 

どんなにブラックな人間でもたまには褒めることがある。その褒められる1%をどうにか拡げたい、また褒められたい、認められたいと努力することが「罠」なのである。

 

ブラックな人間であるので褒める1%というものはどんなに頑張っても拡げられることはない。宝くじ、ギャンブルと同じである。

 

縁あって就職したからなどと言っている暇があれば少しでも当たる確率の高い環境に飛び立っていくことが重要である。

 

就業中において円満な関係を築いてこれなかったのに退職のときになって円満な関係を築けるわけがない。

 

お前の職場はブラックだ。

 

なりふり構わず退職しろ。

 

そして遠慮なく転職しろ。 

 

別れた男の家に行くほど邪悪なものはない

別れた男の家に行くほど邪悪なものはない。

 

「さみしくて」

そう言って別れた男の家に行ってしまう女は一定数存在する。

 

別れた男の家に行くのはさみしいからだ。

ではどうして別れた男の家に行けるのか。

それはきちんと別れることができていないからだ。

男からテキトウな理由をつけられて別れた口であるが

そんなものは男の都合でしかない。

 

恋仲から都合のいい女に成り下がっただけである。

 

向かう先には幸せはない。

男はよりいい女を探し、女はそれに嫉妬し、男は女探しに満足すれば

捨てるか復縁するか自由に選択することができる。

 

復縁したところでそれは半端な愛である。

ひいては付き合っていた歴史そのものが半端な愛であったことにもしかねない。

 

別れた男の家に行くほど邪悪なものはない。

ケンカの本質

ケンカの本質は「相手が悪い」である。

 

自分が悪いと思っていない、または悪いと思っていても相手のほうがより

悪いと思っているからケンカは起こる。

 

さらにケンカをヒートアップさせるものは

相手が申し訳なさを持つように仕向ける言動である。

お互い自分が悪いとは思っていないので言われたほうはさらに怒りを増す。

 

この負のスパイラルを止め、仲直りする方法は

自分にも非があることを素直に認めることである。

 

それができそうにない環境ならばその場を離れて時間を置くことが重要である。

恋人同士のケンカであるならば神社に行くことをお勧めする。

自然と恋人の幸せを祈祷する自分に気づくはずだ。

 

そうすればやることは一つ。

「ぼくがまちがっていた。ゆるしてくれ」と恋人に言いに行くだけだ。