時候のあいさつの仰々しさについて考えてみた
例.)天高く馬肥ゆる秋
手紙を書くとき、時候の挨拶はなぜこんなに仰々しいのかと考えたことはあるはずだ。
一種の”たしなみ”であるので回数を重ねるごとに日常的なものとして扱えるようにはなるがやはり”仰々しさ”や”かたさ”が感じられる。
なぜ時候の挨拶を書くのか。
無からコミュニケーションを築く第一のアクションとしてなぜこんなに大げさなのか。
そんなことを考えていたが、日々の生活で使っている「おはよう」や「こんにちは」「こんばんは」という挨拶は、
「今日はいい天気ですね」や「今晩はいい夜ですね」のように
挨拶とは単に環境に対する感想なのである。
人類は、無からコミュニケーションを作り出す第一歩として
”Good morning” や ”Good evening” のように、互いの共通認識である環境から
共感を得られる言葉を選んだのである。
環境への感想という挨拶の成り立ちからからも時候の挨拶というものはなんら特別なことではない。
しかしながら時候の挨拶というのは日頃のあいさつと比べて、感性が独特で解釈しにくく
自分の感性を押し付ける行為である。
共感から親近感を得るという挨拶の目的から乖離してしまっていること、が
時候の挨拶を仰々しくしている原因である。
時候の挨拶にはテンプレートが蔓延している。
他人の感性の、自分でも共感が得られないものであるにも関わらず、相手に対して共感を求める。挨拶は共感から親近感を得るというコミュニケーションツールであるのでこれでは本末転倒である。
型は大事ではあるがせっかくの手紙であるので自分の言葉で伝えたいものだ。